さぽろぐ

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2007年01月07日

願いは同じですが?

昨日は150戸へ議会報告の「尾田便」を配布訪問。
今日は、午後から檀家寺の総会があるので、午前中に90戸訪問し「尾田便」を配った。
訪問した住民の皆さんと新年の挨拶を交わしながら、
皆さんの思いは開口一番、「仕事がない」「町はこのままでいいのか」
「町全体が活気や迫力がない」などの声が多い。
住民から付託を受けている議員の一人として責任がある。

北海道では、歴史的には古い町であるが、
新時代の始まりとされる明治時代から
生産構造は、半農半漁とカムチャッカ(サハリンや千島列島)への
ヤンシュウ(漁場への出稼ぎ)で、生活をしてきた町である。
これが昭和15年の太平洋戦争前まで続く。

昭和20年以降の戦後は、食糧難で漁家も裏山を耕す。
更に日本短角牛まで飼う様に(町が不漁時の収入補完としてすすめる)。
昭和30年代から始まった高度成長時代に入って
小規模経営の農家や漁家の次男や三男が
都市の働き手となる出稼ぎにいく。
また、婦女子は、十勝方面の大規模農家の働き手となった。
田舎の町でも、公共土木工事が多くなり、
半農半漁に携わっている者も地元の土木工事で働き
日銭を稼ぐ。

昭和45年から米の減反政策が始まる。
反(10a)当り8万円から7万円の減反奨励金だ。
零細農家は、米では喰えないから土木工事が生活基盤の主体となった。
漁業者はこの時代は、前浜でイカ漁は朝まで沖にいれないで
一度陸に帰ってイカを陸揚げし、また沖に行く「千釣け、2千釣け」(千匹2千匹)
も釣れていたので、農家の親父もイカ漁船の「乗り子」として漁にでていた。

それでも昭和60年代までは、農業で12億円、漁業でも同じぐらいの
生産販売額があった。

それが今日、それぞれ約半分近くに落ち込んでいる。
だから首長は、「農業・漁業で喰える町」
農業10億円、漁業10億円の町にと、公約を掲げた。

出稼ぎや日銭稼ぎで生活基盤を築いてしまった住民。
農業、漁業の現実は非常に厳しい。
公共工事も激減している。
しかし、今まで身に染みこんでしまったものから、なかなか抜け出せない。
だから他から見ると、苦しい苦しいと口では言ってるが
まだまだ余裕があるんだなと見られている。
これが今日上ノ国の現実である。
しかしこのままではいけないことは解っている。  
Posted by おだっちの菜の花油 at 21:48Comments(0)議員活動