2012年03月11日
上ノ国名主・久末善右衛門の足取り
上ノ国町教育委員会主催の平成23年度連続歴史講座
「ふるさとの歴史を読み解く」の第3回目が、3月10日午後に開催されました。
今回は、上ノ国名主の久末善右衛門が上知のため、
上ノ国から仙台までの足取りについて、
渡部孝之町教委事務局長が、
善右衛門の日記を紐解きながら解説しました。
江戸時代の末期(1584年・安政元年)幕府はが、
蝦夷地を直轄地としていた時期、東蝦夷地の産物は箱館に、
西蝦夷地の産物は松前に運ぶことに定められていた。
松前地・蝦夷地が松前氏に変換された以降、
場所請負人(建網や昆布漁)の多くが松前に居住しているだけでなく、
場所請負人が株仲間問屋と密接な関係にあって、
東蝦夷地の産物が箱館に集まらなくなり
箱館の経済は大きな打撃を受けることになった。
幕府は外国の開港対応やロシア対策、箱館の経済問題などの
解決が迫られていた。
幕府は外国の開港対応やロシア対策、箱館の経済問題などの
解決が迫られていた。
そこで幕府は松前氏に対して、松前周辺を除いた
松前地と蝦夷地全域の全地の上知を命ずるが、
その代償をすぐに講じなかったため、
上知の命令をを受けた松前藩は藩主以下領民に至るまで、
藩の存亡を懸念して大きな混乱に陥った。
松前藩士らは各地の名主(上ノ国・久末善右衛門)や商人(江差・岸田五郎衛門)達らと、
仙台藩に復領の嘆願書を持って1585年(安政2年)直訴するため旅立つ。
上ノ国名主・久末善右衛門がその旅日記が保存されていました。
この古文書を故渡部良三氏
(渡部孝之町教委事務局長の父)が解読できた分を資料として、
「講座」で語られました。
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Posted by おだっちの菜の花油 at 09:53│Comments(0)
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