江戸時代の治水思想に学べ

おだっちの菜の花油

2012年08月18日 16:39



   江戸時代の治水思想に学べ 
       大阪大学大学院教授・村田路人さん(57) 


 村田路人さんが子供のころ、大阪市東住吉区の実家の近くに今川、駒川という細い川が流れていた。両方とも淀川水系の川。しかし、昭和30年代の高度成長期、すでにコンクリートの護岸がつくられ、川は生活排水で汚れていた。

 「雨が降ると、ドンコやモロコといった魚が上流から流れてきて、それを捕るのが楽しみでした」と当時を振り返る。

 しかし、そのころは大人になってから淀川の治水の歴史について研究するようになるとは思ってもいなかった。

 江戸時代に幕府が淀川など畿内の大河川の治水をどう行っていたか、などについて調べている。専攻は日本近世史。

 「江戸時代、大坂は日本の経済の中心だったし、西日本ににらみをきかす軍事的な拠点という意味もあり、江戸の幕府にとっても重要な土地でした。それだけに大坂がその最下流に位置する淀川の治水には幕府も力を入れたのです」

 中世まではこれといった工事の行われなかった淀川だが、近世に入ると積極的に改修工事が行われるようになる。そのさきがけが豊臣秀吉によって造られた文禄堤。このころから淀川の改修が盛んに行われるようになる。

 江戸時代に入っても、治水の思想の基本にあったのは、自然への恐れだったといい、なるべく自然に逆らわずに治水を行い、川沿いなどの開発も最小限にとどめるというのが当初の考え方だった。

 「河川敷や中州が田畑として開発され、作付が行われると、それに伴って田畑を守るために村人らによって小さな堤防が造られたりする。そうすると、洪水のときに川の水の流れが悪くなって氾濫してしまう。それを恐れて、長らく幕府は河川敷や中州の開発を厳しく制限していたのです」

 しかし、開発の欲求は時代を問わないものらしい。18世紀に入り、徳川吉宗の治世のころ、淀川沿岸の開発しやすい場所が開発され尽くしたため、さらなる開発を求めて河川敷や中州も開発の対象になる。

 「享保の改革のころ、開発を抑制することによって水害を防ぐという考え方から、開発優先による水害のリスクをやむを得ないものとし、強固な堤防をつくることで決壊を防ぐという考え方に転換したのです」

 その考えはもろくも崩れることになる。享和2(1802)年、淀川が氾濫、現在の枚方市から大阪市まで約240の村が被害を受けた。

 なるべく自然の状態を守るか、開発を優先させるか、そのせめぎあいは現代にも通じる。今でも大きなテーマだが、「開発優先、堤防信仰による治水という現在の考え方は、いずれひどいしっぺ返しを食らうというのが歴史の教訓ではないでしょうか」と村田さん。

 江戸時代の研究を通して現代に警鐘を鳴らす。(袖中陽一)

【用語解説】文禄堤(ぶんろくつつみ)
 文禄年間に豊臣秀吉が諸大名に命じて建設した淀川の堤防。これによって淀川の堤防は初めて連続堤防になったとされる。堤防上は交通路として利用された。豊臣政権期には宇治川の流路変更もあり、淀川の姿は大きく変わったという。

産経新聞 8月18日(土)15時18分配信





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