<兵庫・竹田城跡>「戦国」の職人技で石垣修復へ

おだっちの菜の花油

2014年02月21日 09:16




         <兵庫・竹田城跡>「戦国」の職人技で石垣修復へ

 戦国時代に多くの名城の石垣造りに関わった石工職人の集団「穴太(あのう)衆」の子孫にあたる大津市の職人が、3月から「天空の城」として知られる国史跡・竹田城跡=兵庫県朝来(あさご)市=の石垣修復に取り組む。

 伝統の「穴太積み」の技術を生かし、「城の石垣を忠実に再現して200年は持たせたい」と意気込んでいる。

 穴太衆の起源は、788年、最澄が比叡山延暦寺(大津市)を開いた際、急斜面の基礎工事や参道工事に動員された石工職人集団とされる。現在の大津市穴太付近に拠点を置いていた。織田信長や豊臣秀吉に高い技術を買われ、安土城や大坂城などの石垣構築にも関わったと伝えられる。

 穴太積みは、採掘された大小の石をバランスよく配置し、石垣の裏側から「栗石(ぐりいし)」と呼ばれる小石を更に詰めることで、石一つ一つにかかる圧力を分散させるのが特徴だ。現在は、穴太衆の子孫で厚生労働省の「現代の名工」にも選ばれた建設会社会長、粟田純司さん(73)=大津市坂本=が社員ら4人に技術を継承する。

 粟田さんらは各地の城の石垣修復だけでなく、新名神高速道路の工事にも技術を生かしている。滋賀県内のトンネル工事で出た石でのり面を造ることになり、粟田さんらが石積み作業を担当。コンクリートを超える強度になったという。

 竹田城は1443(嘉吉3)年に完成し、1600年ごろに石垣の城郭が築かれたとされる。秋から冬にかけ気象条件によって、雲海に石垣の城跡が浮かぶ姿で人気を集める。観光客が急増し、石が突き出るなど石垣の傷みが目立ち始めたため、管理する朝来市が修復を決定した。

 粟田さんの指導で、長男純徳さん(45)らが天守台東側で、特に傷みが目立つ幅10メートル、高さ2メートルの範囲を修復することになった。

 粟田さんは「元々竹田城の石垣にも『穴太積み』が採用されており、修復に関われるのは縁を感じる。穴太衆の技術を結集したい」と話している。【村松洋】

毎日新聞 2月21日(金)7時40分配信