2008年08月12日
廃校の軌跡・神明小中学校
休廃統合学校の軌跡
檜山にみる、ともしび消えた学校の、栄光のあしあと
檜山校長会 昭和62年3月発行
*平成14年12月檜山校長会許可(会長 赤泊慎児氏)
掲載申請檜山教育データーベース研究会
上ノ国町立神明小・中学校
所在地 桧山郡上ノ国町字湯ノ岱355番地(通称神明ノ沢)
廃校後の校舎はベニヤ工場として地区住民が就労していましたが、現在は工場が閉鎖され、校舎は同校を卒業した輪島尊綱氏(シリカ鉱業有限会社・代表取締役社長)が、校舎土地も含めて買い受けし、一部シリカ工場として利用しています。(写真・上・下)
校 歌 作詞 鈴木常作
作助 林 喬木 (S31・2・20 制定)
1
この美しき 山や丘
清き流れの 天ノ川
学びの心 そのままに
磨きあげなん 身と心
2
薫りも高い.すずらんの
やさしき心 そのままに
ともに愛みて 豊かなる
高き文化を うちたてん
3
その名も等し 神明の
至誠の道を ひとすじに
勤めはげみて もろともに
豊かに築く 理想郷
1.沿革の概要
昭23・
神明ノ沢及び膳棚ノ沢、両地域における開拓戸数の増加に伴い、就学児童数が漸増し、分教場設置気運も高まり、両地区より距離的に利便な該当地を、所有者 加賀谷理書氏 の好意により土地交換が成立し、総面積100848坪≒32675平方mの校地確保を完了す。
23・07・05
村立湯ノ岱小学校神明ノ沢分教場新築落成。(教室・廊下・玄関・便所 総計32坪) 同日 開校式挙行(児童数20名)
24・10・15 分校主任住宅工事完成(17坪)
25・08・31 独立校となり、神明ノ沢小学校と呼称す。(児童数45名)
26・07・17 物置設置(開拓住宅移転転用・9坪)完成。
28・07・14 神明小学校に校名変更す。
28・09・04 校舎増築工事着工し、12月7日落成す。総坪数36.5坪となる。
30・04・01 湯ノ岱中学校神明分校の併置が認可され入学式を挙行す。(入学生8名)当分の期間2~3年は本校登校措置。
31・04・01 小学校2学級編成認可となる。同日、湯ノ岱中学校神明分校が昇格独立し、神明中学校と呼称、併置認可される。
31・09・22 中学校体育館落成。(27.5坪)
32・12・05 教員住宅1戸竣工。(12.5坪)
33・12・05 中学校校舎増築落成。(教室・廊下・玄関・職員室・教具室計48・5坪)
35・10・27 物置一角に発電室を設け、校内電化を実現す。
36・09・27 体育館増築工事完了。(8・25坪総面積35.75坪となる)
37・11・25 校下全域電化により、校内自家発電を廃止す。
39・04・01 小学校3学級、中学校2学級編成認可となるも、示達の遅滞により実編成に至らず。
39・04・12 教室間仕切りにより、小学校教室増とする。(出入口部分変更増設)
39・10・20 3号住宅完成。(12.5坪)
39・11・10 水道工事完成し、通水実現す0
40・07・10 4号住宅完成。(14坪)
40・12・10 校舎増築。(付校長住宅工事)
44・04・01 小・中学校各2学級編成。
46・09・01 教具室新設。(産体非常口改造)
46・10 ミルク給食開始。(宮越小完全給食実施に伴う必要備品転用)
47・04・10 江差町ほか2町学校給食セソター発足により完全給食実現。
47・07・21 水道施設工事着工。(8月7日 完成、電気ポンプ)
49・05・13 模疑自然林造成完了。(苗木、約50本・25品種)
49・09・26 グランド整地。
51・06・09 グランド整地。
52・03・27 閉校式典行事挙行。
51・03・31 湯ノ岱小、中学校に統合のため廃校となる。
(小学較校歴 28年9ケ月)(中学校校歴22年0ケ月)
(学校と併設されていた校長住宅には神明開拓者の方が現在居住)
2.歴代学校長
初代 渡辺 久書 s25・4・1~28・4・30
二代 書田弥治兵衛 28・5・1~31・3・31
三代 大竹 竹継 31・4・1~32・3・31
四代 町田 秀歳 32・4・1~40・3・31
五代 菅谷 勝二 40・4・1~43・3・31
六代 松林 信男 43・4・1~46・3・31
七代 湯浅 和登 46・4・1~52・3・31
5.学級数・教員数・児童・生徒数の推移
(1)神明小学校
4・特記すべき学校の顔
(1)学校環境整備協力
学校地提供昭和23年、加賀谷理吉氏 の好意により約千坪を対等交換して取得。
有志の材料寄贈及びPTA奉仕により 野球用バックネット設置完成。
s43.8.19 PTA奉仕作業として、校舎正面にオンコ(いちい)移植。
s47.4.20 屋外遊具として古タイヤ配置。
s47.5.23 父母奉仕によるグランド整地。周囲除草・花壇手入れ・除雪作業等々多彩。
(2)学校教育研究会等
昭47・02・09~10 桧山単複研初日会場として授業公開す。
昭49・12・12 南桧山単複研会場校。
昭50・09・18 校内学習研究会開催。
(3)昭42・7・5 開校20周年記念式典挙行。
5・廃校・統合の経過
昭和50年5月。町教委より統廃合に関わる問題が出され、学校側の意見というより『この問題について、今後どのように進めたらよいか』という基本的話し合いが始められた。 以来、年の瀬も押し詰まるまで、PTA役員会、部落懇談会等での懊悩の論議が続く。
51年の新春、通常であれば新年の祝い酒に紅顔も見られたであろうが、長期にわたる討議の末の廃校決定は、極めて悲愴な酒に変る。
子どもの将来のために、断陽の思いで閉校を決意した関係者一同の落胆を背に、事務的な手続きは進み、遠足・運動会・学芸会等々神明小中学校の灯が消されていく中で、閉校式準備委員会活動が細々と続き、昭和52年3月27日、小学生3名、中学生7名が最後の在校生として着席した閉校式典-やがて永久保存書類とともに湯ノ岱小・中学校へ引き継がれるのである。
全戸数28戸、住民70余人であった。通学バス運行条件も実現して-0(第7代湯浅和登校長談 要約)
第6代校長 松林信男
昭和46年4月着任。在籍数が下降線をたどる地域実態に、部落会や婦人会の話題で
「この地に、何か活性的なものを創り出し、活力をよみがえらせるものが欲しい」との声が高まり、その熱情に刺激を受け、一つの策として、校下全域に根づく、”神明音頭”の創作にとりかかったものである。もとより、詩情感に疎い小生ではあるが、切実な部落活性化への願望が、即、神明校教育向上への絆でもあろうと、無我夢中で作詞に取り組んだものである。
この道の先輩に補作を願い、さらに足を伸ばし、音楽家でもある町役場勤務の笹浪甲衛氏を訪れ、作曲を懇願して完成をみたのである。加えて、踊りの振り付けも本決まりとなり、和気藹々の中に、唄と踊りの猛練習が繰り返えされ、あの小さな体育館を会場に、上ノ国音楽愛好クラブ面々の伴奏で、盛大なI”神明音頭’’披露発表会が催されたのであった。
往時の区長さん、婦人会長さん、そして部落の皆さんと支え合った3年間でしたが、腹を割って過ごさせていただいた神明校時代が学校経営責任者として、大きな、大きな自信に結びつき得たものと、強烈な想い出をかみしめております。ありがとうございました。
同窓の皆さんのご隆昌を祈念し、とこしえに神明魂を堅持し、懐しき神明校の思い出を語り継がれんことを願ってやみません。(湯ノ岱小首周年記念誌抜粋)
神明校の思い出 第2回卒業生 伊藤 政利
昭和23年7月。当時3年生で、開校祝いにいただいた品は白木の鉛筆だったこと、ごちそうは、母さん方手づくりのおしるこで、その味は最高のもので、今でも忘れられません。
戦後の困乱期、家族の程を求め開拓地に入植したものの、連日が飢えに迫られる窮状が続くばかり。開拓農業の重労働は子どもながら肌身に感じておりましたが、家庭や地域の将来を考え、部落挙げての学校設置運動が実を結び、神明校草創の期を迎えた両親や部落住民の勧善はひとしおであり、心から先輩や父母に、その労苦を謝するものであります。
開校という、神明校区の文化や歴史を刻み始めたとき、初担任、野菊幸雄先生との出会い。当時、先生は24~5才であられたろうか、やさしくて力持ち、足が速く、そして何でも知ってて、何でもできる『神様みたいな先生』でした。こんなこともありました。学芸会で使うオルガンを、男子9人と先生の10人で、湯ノ岱まで荷車を引いて、ようやく運んで来たのですが、なんと、返すときは、野菊先生一人で背負って戻して来たのです。それも、鉄橋のある線路を通って・・・・・まさに『神様みたいな先生』だったのです。
卒業の日、同級生4人に渡辺久書校長先生とキヌエ先生でお別れ会。白い紙袋の中には先生が用意してくれた塩セソペイとりんごが入っていたと記憶しているが、向かい合って座わったものの、お別れの言葉も出なく、ただ先生の手にすがって涙するばかりでした。 校長先生の「お前達を手離したくない。中学校へ行っても負けずに頑張れ!」
との優しい一言 このことが、2里もある通学路を3年間通学できたと思います。朝は6時に家を出て、帰りはいつも6時過ぎであった。
「負けずに頑張れ」の意味は「自分に負けずに-」の一言になりました。冬は腰までつかる雪をかきわけて (湯ノ岱小百周年記念誌抜粋)
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檜山にみる、ともしび消えた学校の、栄光のあしあと
檜山校長会 昭和62年3月発行
*平成14年12月檜山校長会許可(会長 赤泊慎児氏)
掲載申請檜山教育データーベース研究会
上ノ国町立神明小・中学校
所在地 桧山郡上ノ国町字湯ノ岱355番地(通称神明ノ沢)
廃校後の校舎はベニヤ工場として地区住民が就労していましたが、現在は工場が閉鎖され、校舎は同校を卒業した輪島尊綱氏(シリカ鉱業有限会社・代表取締役社長)が、校舎土地も含めて買い受けし、一部シリカ工場として利用しています。(写真・上・下)
校 歌 作詞 鈴木常作
作助 林 喬木 (S31・2・20 制定)
1
この美しき 山や丘
清き流れの 天ノ川
学びの心 そのままに
磨きあげなん 身と心
2
薫りも高い.すずらんの
やさしき心 そのままに
ともに愛みて 豊かなる
高き文化を うちたてん
3
その名も等し 神明の
至誠の道を ひとすじに
勤めはげみて もろともに
豊かに築く 理想郷
1.沿革の概要
昭23・
神明ノ沢及び膳棚ノ沢、両地域における開拓戸数の増加に伴い、就学児童数が漸増し、分教場設置気運も高まり、両地区より距離的に利便な該当地を、所有者 加賀谷理書氏 の好意により土地交換が成立し、総面積100848坪≒32675平方mの校地確保を完了す。
23・07・05
村立湯ノ岱小学校神明ノ沢分教場新築落成。(教室・廊下・玄関・便所 総計32坪) 同日 開校式挙行(児童数20名)
24・10・15 分校主任住宅工事完成(17坪)
25・08・31 独立校となり、神明ノ沢小学校と呼称す。(児童数45名)
26・07・17 物置設置(開拓住宅移転転用・9坪)完成。
28・07・14 神明小学校に校名変更す。
28・09・04 校舎増築工事着工し、12月7日落成す。総坪数36.5坪となる。
30・04・01 湯ノ岱中学校神明分校の併置が認可され入学式を挙行す。(入学生8名)当分の期間2~3年は本校登校措置。
31・04・01 小学校2学級編成認可となる。同日、湯ノ岱中学校神明分校が昇格独立し、神明中学校と呼称、併置認可される。
31・09・22 中学校体育館落成。(27.5坪)
32・12・05 教員住宅1戸竣工。(12.5坪)
33・12・05 中学校校舎増築落成。(教室・廊下・玄関・職員室・教具室計48・5坪)
35・10・27 物置一角に発電室を設け、校内電化を実現す。
36・09・27 体育館増築工事完了。(8・25坪総面積35.75坪となる)
37・11・25 校下全域電化により、校内自家発電を廃止す。
39・04・01 小学校3学級、中学校2学級編成認可となるも、示達の遅滞により実編成に至らず。
39・04・12 教室間仕切りにより、小学校教室増とする。(出入口部分変更増設)
39・10・20 3号住宅完成。(12.5坪)
39・11・10 水道工事完成し、通水実現す0
40・07・10 4号住宅完成。(14坪)
40・12・10 校舎増築。(付校長住宅工事)
44・04・01 小・中学校各2学級編成。
46・09・01 教具室新設。(産体非常口改造)
46・10 ミルク給食開始。(宮越小完全給食実施に伴う必要備品転用)
47・04・10 江差町ほか2町学校給食セソター発足により完全給食実現。
47・07・21 水道施設工事着工。(8月7日 完成、電気ポンプ)
49・05・13 模疑自然林造成完了。(苗木、約50本・25品種)
49・09・26 グランド整地。
51・06・09 グランド整地。
52・03・27 閉校式典行事挙行。
51・03・31 湯ノ岱小、中学校に統合のため廃校となる。
(小学較校歴 28年9ケ月)(中学校校歴22年0ケ月)
(学校と併設されていた校長住宅には神明開拓者の方が現在居住)
2.歴代学校長
初代 渡辺 久書 s25・4・1~28・4・30
二代 書田弥治兵衛 28・5・1~31・3・31
三代 大竹 竹継 31・4・1~32・3・31
四代 町田 秀歳 32・4・1~40・3・31
五代 菅谷 勝二 40・4・1~43・3・31
六代 松林 信男 43・4・1~46・3・31
七代 湯浅 和登 46・4・1~52・3・31
5.学級数・教員数・児童・生徒数の推移
(1)神明小学校
4・特記すべき学校の顔
(1)学校環境整備協力
学校地提供昭和23年、加賀谷理吉氏 の好意により約千坪を対等交換して取得。
有志の材料寄贈及びPTA奉仕により 野球用バックネット設置完成。
s43.8.19 PTA奉仕作業として、校舎正面にオンコ(いちい)移植。
s47.4.20 屋外遊具として古タイヤ配置。
s47.5.23 父母奉仕によるグランド整地。周囲除草・花壇手入れ・除雪作業等々多彩。
(2)学校教育研究会等
昭47・02・09~10 桧山単複研初日会場として授業公開す。
昭49・12・12 南桧山単複研会場校。
昭50・09・18 校内学習研究会開催。
(3)昭42・7・5 開校20周年記念式典挙行。
5・廃校・統合の経過
昭和50年5月。町教委より統廃合に関わる問題が出され、学校側の意見というより『この問題について、今後どのように進めたらよいか』という基本的話し合いが始められた。 以来、年の瀬も押し詰まるまで、PTA役員会、部落懇談会等での懊悩の論議が続く。
51年の新春、通常であれば新年の祝い酒に紅顔も見られたであろうが、長期にわたる討議の末の廃校決定は、極めて悲愴な酒に変る。
子どもの将来のために、断陽の思いで閉校を決意した関係者一同の落胆を背に、事務的な手続きは進み、遠足・運動会・学芸会等々神明小中学校の灯が消されていく中で、閉校式準備委員会活動が細々と続き、昭和52年3月27日、小学生3名、中学生7名が最後の在校生として着席した閉校式典-やがて永久保存書類とともに湯ノ岱小・中学校へ引き継がれるのである。
全戸数28戸、住民70余人であった。通学バス運行条件も実現して-0(第7代湯浅和登校長談 要約)
第6代校長 松林信男
昭和46年4月着任。在籍数が下降線をたどる地域実態に、部落会や婦人会の話題で
「この地に、何か活性的なものを創り出し、活力をよみがえらせるものが欲しい」との声が高まり、その熱情に刺激を受け、一つの策として、校下全域に根づく、”神明音頭”の創作にとりかかったものである。もとより、詩情感に疎い小生ではあるが、切実な部落活性化への願望が、即、神明校教育向上への絆でもあろうと、無我夢中で作詞に取り組んだものである。
この道の先輩に補作を願い、さらに足を伸ばし、音楽家でもある町役場勤務の笹浪甲衛氏を訪れ、作曲を懇願して完成をみたのである。加えて、踊りの振り付けも本決まりとなり、和気藹々の中に、唄と踊りの猛練習が繰り返えされ、あの小さな体育館を会場に、上ノ国音楽愛好クラブ面々の伴奏で、盛大なI”神明音頭’’披露発表会が催されたのであった。
往時の区長さん、婦人会長さん、そして部落の皆さんと支え合った3年間でしたが、腹を割って過ごさせていただいた神明校時代が学校経営責任者として、大きな、大きな自信に結びつき得たものと、強烈な想い出をかみしめております。ありがとうございました。
同窓の皆さんのご隆昌を祈念し、とこしえに神明魂を堅持し、懐しき神明校の思い出を語り継がれんことを願ってやみません。(湯ノ岱小首周年記念誌抜粋)
神明校の思い出 第2回卒業生 伊藤 政利
昭和23年7月。当時3年生で、開校祝いにいただいた品は白木の鉛筆だったこと、ごちそうは、母さん方手づくりのおしるこで、その味は最高のもので、今でも忘れられません。
戦後の困乱期、家族の程を求め開拓地に入植したものの、連日が飢えに迫られる窮状が続くばかり。開拓農業の重労働は子どもながら肌身に感じておりましたが、家庭や地域の将来を考え、部落挙げての学校設置運動が実を結び、神明校草創の期を迎えた両親や部落住民の勧善はひとしおであり、心から先輩や父母に、その労苦を謝するものであります。
開校という、神明校区の文化や歴史を刻み始めたとき、初担任、野菊幸雄先生との出会い。当時、先生は24~5才であられたろうか、やさしくて力持ち、足が速く、そして何でも知ってて、何でもできる『神様みたいな先生』でした。こんなこともありました。学芸会で使うオルガンを、男子9人と先生の10人で、湯ノ岱まで荷車を引いて、ようやく運んで来たのですが、なんと、返すときは、野菊先生一人で背負って戻して来たのです。それも、鉄橋のある線路を通って・・・・・まさに『神様みたいな先生』だったのです。
卒業の日、同級生4人に渡辺久書校長先生とキヌエ先生でお別れ会。白い紙袋の中には先生が用意してくれた塩セソペイとりんごが入っていたと記憶しているが、向かい合って座わったものの、お別れの言葉も出なく、ただ先生の手にすがって涙するばかりでした。 校長先生の「お前達を手離したくない。中学校へ行っても負けずに頑張れ!」
との優しい一言 このことが、2里もある通学路を3年間通学できたと思います。朝は6時に家を出て、帰りはいつも6時過ぎであった。
「負けずに頑張れ」の意味は「自分に負けずに-」の一言になりました。冬は腰までつかる雪をかきわけて (湯ノ岱小百周年記念誌抜粋)
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Posted by おだっちの菜の花油 at 21:44│Comments(0)
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