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2009年08月15日

終戦の日・死んだ家族思い涙がたまる

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   終戦の日の寂しさ、死んだ家族思い涙がたまる
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 全国戦没者追悼式が開かれた15日、疎開中に家族を失った少年は、74歳になった今年も自宅のテレビで式典を見守った。千葉県柏市の吉村友佑(ゆうすけ)さん。

 「苦い記憶を思い出すのはつらい」と、式に参加したことはない。しかし、あの終戦の日に感じた寂しさは、焼け野原と化した故郷の光景とともに今年も胸によみがえった。

 64年前の8月15日。学童疎開で広島県北部の山あいの寺にいた。敗戦は「玉音放送」をラジオで聞いた先生から聞いた。同級生らは「家に帰れる」と喜んだが、吉村さんは違った。「お父さんは迎えにきてくれるだろうか」。9日前、巨大なキノコ雲を見ていた。

 当時10歳。広島市の「神崎国民学校」(現・市立神崎小)の5年生だった。市中心部で父親と兄2人、姉2人の6人暮らし。母親は病気で他界し、長男と次男の兄2人は徴兵されていた。1945年6月、吉村さんだけ市から北へ約20キロの山県郡吉坂村(現・北広島町)に級友らと一緒に疎開した。

 8月6日の朝礼中、飛行機のエンジン音を聞き、数分後、「ピカッ」と閃光(せんこう)が走った。「電線のショートかしら」。教師がいぶかると、「ドーン」と地響きのような音が聞こえた。

 「新型爆弾で街は壊滅した」。しばらく後、全身に血染めの包帯を巻いた大勢の大人たちが村に避難し、惨状を教えてくれた。

 終戦を迎えると、級友の親は次々に寺に迎えに来た。約30人いた学童は1人減り、2人減り、8月末には十数人に。「家族の死を何となく覚悟した。心細かった」

 自分はどうなるんだろうと不安に駆られる日々。9月、徴兵されていた兄2人が寺にやってきた。「天にも昇るうれしさ」だったが、市内に残っていた5人の家族はみな、原爆で亡くなったことも知らされた。

 兄2人とともに飢餓と隣り合わせの日々が始まった。家族の遺骨を探す傍ら、実家の焼け跡に廃材を集めて小屋を建てた。父親の衣類など家族の遺品もヤミ米と交換した。

 兄2人のおかげで徐々に生活は安定し、吉村さんは広島大を卒業後、総務省の前身「行政管理庁」に入庁。民間企業を経て99年に引退した。長男は独立し、妻と2人暮らし。地域の高齢者の家具修理などを手伝うボランティア団体の代表を務める平穏な日々だ。

 心残りは、遺体が見つからなかった家族のこと。広島に帰省する度、「今歩いている道路の下に骨が埋まっているかも」と考えてしまう。毎年の終戦記念日には死んだ家族を思い、目に涙がたまる。「戦争は絶対の悪。二度と起こしてはいけない」。心の傷は癒えていない。(8月15日 読売新聞)



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Posted by おだっちの菜の花油 at 16:43│Comments(1)
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