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2012年10月24日

ヒツジの里:農地再生へ挑戦/1 衰退続ける古里 /長野



       ヒツジの里:農地再生へ挑戦/1 衰退続ける古里 /長野

 ◇「何とかならないのか」 耕作放棄地解消、妙案なく
 田畑に作物が豊かに実り、子供たちが元気に駆け回る古里にしたい--。そんな理想郷づくりを、全国各地の衰退する農山村が目指している。須坂市豊丘(とよおか)では耕作放棄地に羊を放牧し、草を食べさせ、育てた羊の肉を特産品にする取り組みを始めた。羊は救世主になるか。今年で3年目を迎えた農家らの奮闘記を紹介する。【渡辺諒】

 標高600メートルに広がる須坂市豊丘の丘陵地。眼下に市街地を見下ろし、明治時代から続く酪農が盛んな高原の農村地帯だった。しかし、少子高齢化の波が徐々に迫り、雑草が生い茂る耕作放棄地(1年以上耕作されていない農地)が目立つようになった。
 「田畑は荒れているし、子供の声も聞こえない。かつての美しさはどこへいってしまったのだろうか」

 羽生田登志(はにゅうだとし)さん(64)=須坂市豊丘=は豊丘で生まれ育ち、1971(昭和46)年から32年間、北海道で大型動物専門の獣医師として働いた。実家の跡継ぎだった兄が亡くなり、03年に55歳で帰郷した。当時、豊かな北海道の農地に比べ、虫食いのように耕作放棄地が点在する古里の惨状に言葉を失った。

 「このままではまずい。何とかならないのか」と地区の会合にも積極的に参加した。しかし、会合の度に、耕作放棄地の解消が議題に上るが、妙案は浮かばない。月日だけが流れた。

 昭和40年代ごろまで豊丘は、牛の鳴き声が響くのどかな酪農郷だった。明治期の地名は、灰野(はいの)村。牛を飼ってふんを堆肥(たいひ)にして田畑を耕し、乳を搾って販売する。理想的な自然循環の中で新鮮な牛乳が生産され、県内外に「灰野牛」として名をはせた。

 地域は潤い、良い牛乳と共に豊富な作物も育った。村名は園里(そのさと)村を経て1892(明治25)年に豊丘村に改名した。羽生田さんは「灰の野ではイメージが悪い。良い作物ができる高地という願いの結果、豊丘になった」と地区の古老から聞いたという。

 しかし、村は1971年に須坂市に編入合併され、自治体としての役割を終えた。更に同年には国の生乳に関する衛生指導が強化され、地域の酪農が打撃を受けた。衛生管理が厳格化され、経費や手間がかかり、小規模な農家が牛乳を出荷することが難しくなったのだ。

 徐々に離農者が増え始めた。同時に社会全体がバブル景気期に差し掛かり、若者が就職や進学で都市部へ出て、人口減少にも拍車が掛かった。

 衰退を続ける古里。会合を重ねるうち「かつて乳牛と共に飼育し、なじみのある『羊』を耕作放棄地に放牧しよう。小型で比較的飼育も容易だ」との構想が浮上した。以前、多くの農家が、羊に乳牛の食べ残しの餌を食べさせ、毛を売る目的で飼っていた。しかし、資金や飼育の技術面での課題が多く、まだ、夢物語のような状況だった。(随時掲載)
10月24日朝刊

毎日新聞 10月24日(水)12時59分配信






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Posted by おだっちの菜の花油 at 15:12│Comments(0)
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